「北海道の名付け親」異聞   竹川竹斎翁のこと

  • 2018.06.21 Thursday
  • 08:57

 この六月八日(金)道新紙上の「試写室欄」で、BSTテレビBS番組「高島玲子が家宝捜索蔵の中に何がある」についての案内記事を偶々見付けた。

 訪ねるのは「三重県松阪市の竹川家︙︙」とあってびっくり。この竹川家について、私は詳しい。旧制女学校時代の同級生が竹川家に嫁いで名門夫人になっておられると知って札幌から同家を訪ねたことがある。その経緯を書いたエッセイが「北方文芸」一六八号(一九八二年一月号)に掲載されたことも思い出した。

 その後は合う機会もなく三十五年が経ち、年賀状も絶え、八六歳になった今はお互いの生死さえさだかではない。番組で竹川隆子さんの姿が見られるかどうか、危ぶむ気持ちのままにテレビ画面に釘付けになった。

江戸時代の豪商で「射和文庫」という別名のある竹川家のお蔵は歴史的な宝庫である。

次々に紹介される宝物については、十一代目ご当主の母上が最も詳しいとのことで、い

よいよ老夫人が登場。昔、当代切っての美女と騒がれた隆子さんが、さらに一層の気品と優雅さを増していた。さりげない身のこなし、笑顔での話しぶりも魅力があって美しい。老いてますます磨かれるとはこういう事かと彼女の姿に見入った。

 竹川家「射和文庫」の家宝の歴史的な価値や由来については、七代目竹川竹斎の功績なしには語れない。竹斎は幕末の動乱期に幕府方への政治的な変革案を積極的に提言し、勝海舟に大いに用いられた人物だった。番組ではほとんど触れなかったことが惜しまれる。

 北海道では殆ど無名の竹斎だが、今や開道一五〇年、蝦夷地を「北海道」と命名した、かの名付け親、松浦武四郎を知らぬ人は居ないだろう。

ところで二人は共に同時代の伊勢国、松阪の人であって、竹斎は武四郎の九歳年上だった。それぞれに当時の幕府に貢献したところが大きかったが、竹斎は海舟の失脚と共に時代の敗者になった。一方、武四郎は明治政府の開拓使に用いられるが、一年後にはアイヌ政策への不満から判官を辞して早々、野に下った。

この二人について、私は三十五年前に竹川夫人から驚くべきことを聞いた。

実は竹斎が武四郎に先んじて、蝦夷地を「北海道」と名付けるべきだという説を自著の「」に書いておられるという話だ。北海道の名付け親異聞である。

詳しくは、次に挙げた私のエッセイ「私と『城のある町』」をぜひ読んでいただきたい。

 

私と「城のある町」

 

梶井基次郎の「城のある町」が松阪のことだと気付いたのは、ほんの数年前のことである。

この小品は、それ以来、私にとって特別な感情を喚起するものになった。城跡から展望する風景描写のくだりで、「海からやって来る小さな軽便」が、不意に遠い記憶の中の私の松阪に重なる。「津」からやって来るその軽便は、私が卒業した県立高女の校舎の背後をのんびり走っていた。「日覆を除した三階建の旅館」の真裏に、小川を隔てて叔母の家があり、叔母の家の背後には城があった。

お盆になると、幼い私は両親に連れられて先祖の墓参りに大阪から伊勢に来るのだが、墓は櫛田川上流の不便な山里にあるので、この叔母の家が常宿になる。城跡での独り遊びに飽きると、私は叔母の家に戻って窓際に坐り込み、川向うの三階の旅館の後姿に魅せられる。どの階からも、手入れのよい庭園を挾んで城跡を見上げる形に、欄干付きの窓がある。私の視界は窓ばかりになる。せわしく膳を運ぶ女中たち。芸者の肩を抱いて、人目もはばからず窓辺でたわむれる浴衣がけの男客。活動写真を見るように凝視する私の姿に気付いて、手を振る客がいる。私はあかんべえをしてぴしゃりと障子を閉め、覗き見をあきらめる。それから秘密のたのしみを母に気取られまいと、用心深く茶の間の団欒に加わるのだった。

昭和十八年の春浅く、大阪から父の故郷へ疎開した私は、翌年から松阪の県立高女へ通う身となる。こうして「城のある町」は私の忘れ得ぬ土地の一つになった。

昨春、三十二年ぶりに県立高女の旧友に再会する機会を得た。私のつたない作品「鶴の泪」の幸運な入選をききつけた松阪在住の数人が、老舗の牛肉屋「和田金」で御馳走してくれるという。

松阪駅には仲良しの武田さんと多賀さんが出迎えてくれた。卒業以来の対面というのに、会えば一足飛びに女学生に戻ってしまう不思議さ。「和田金へ行く前に、久子ちゃんに見せたいとこがあるのやさ」と、元護城番屋敷の住人の多賀さんが車で案内してくれる。車中で二人から目的地が「文庫」だという話を聞いた。熊野街道に面したは、狂言に出てくる伊勢白粉の名で知られた射和軽粉の産地で、室町の頃から栄え、下って江戸期には江戸店を持つほどの富商が輩出した。中でも富山家は「伊勢の射和の富山さまは、四方

白壁八ツ棟造り、前は切石切戸の御門、裏は大川船がつく」と俚謡に唄われたという。しかし明治にはこれら豪商はすべて没落し、昔の面影もない。現存する竹川家の「射和文庫」には、住時の繁栄を物語る資料がそっくり保存されている。「その射和文庫の御当主の竹川さんの奥さんが、あの阪倉さんなンよ」と教えられて驚いた。

阪倉さんは同じ軽便で朝夕顔を合わせていた同窓生で、ミス松電とも、ミス飯南とも騒がれた美少女だった。射和村に何代も続く名家の生まれで、学生当時から、噂では親の定めた許婚者がいた。色白な細面で、形のいい口許に優しい笑みを浮べた阪倉さんは、芋娘の私にとって近寄りがたい気品の持主だった。許婚者というのが竹川家の十二代目の御当主だったと聞けば、今にして合点がいく。

 射和文庫の創設者は七代目竹川竹斉、幕末の人である。竹斉は家業の両替、為替御用をつとめる傍「生涯に文庫を建て、万巻の書を積み、後世に遺し、好書生のため随意に読書いたさせ候はゞ、百年の内にはかなりの用に立候う人物も出来もうすべきか」と発心し、図書一万巻を集め、自ら書を講じて殖産の道を説いた。嘉永六年、浦賀にペリーが来航し、国中が騒然となった時、海防策を著して勝海舟に寄せた。これが彼の有名な海防護国論である。

 私の通学路の軽便は疾くに廃線になり、車はその路線跡のバス道路をひた走った。車窓から眺めると、四分咲きの山桜に色どられた山並みも沿線の家々も、春の陽ざしの下で輝くばかりに明るい。案内役の二人の説明を聞きながら、戦時下の松阪で、豊かな郷土の歴史には無縁の腹ペコの「疎開さん」だった私の女学生時代が切なく思い出される。

 由緒ありげな「射和文庫」の看板を揚げた御門に到着するや、待ちうけていたように竹川夫人が姿を見せた。往年の阪倉さんの面影に年令の柔みが加わって羨ましいほど優雅な物腰の佳人である。数百年続いた家屋敷と夥しい古文書、古器物の管理に明け暮れているという。戸外は麗々と暖い日和だが、元禄十五年に建てられた母屋に通されると、ストーブが恋しいほど底冷えする。座敷隅の貼りまぜの屏風には織田信長や竹川家の先祖の浅井長政、四十七士の原惣右衛門の手紙、谷文兆の絵が見え、往時が偲ばれる。

 お蔵に案内されて、次々と珍しい物を説明されるうち、彼女は古い数冊の書物を選び出して「北海道いうたら松浦武四郎さんが名付け親と言われていますけど、竹川竹斉が万延元年に著わした『』という此の本には〈えぞを開くは第一に名を正し、北海道を建つべきこと。南北蝦夷并に、千島およそ里方二万の地を三十四国二島を割き、皇国を五畿八道百ヶ国五嶋と立つべきこと。〉といってますの。武四郎さんが〈北加伊道〉という名前の案を出されたのが明治二年でしたで、竹斉はそれ以前に〈北海道〉案を持っていたのですわ」と言う。松浦武四郎も又、松阪近在の三雲村出身である。

 はるかな伊勢路から大阪の大学へ進み、東京を経て、夫の生家のある函館に渡った私に、竹川さんは「射和文庫は函館とも御縁がありますのやわ」と続けた。江戸の勝海舟を伊勢の竹川竹斉に結び付けたのは函館の渋田利右衛門という人だという。利右衛門は函館の豪商で、長く勝海舟のパトロンとして経済的な援助を惜しまなかった。海舟は「氷川清話」の中で、利右衛門が「若し自分に万一のことがあれば、自分に代わる者」として三人の豪商の名を挙げたと語っている。その一人が伊勢の竹川竹斉だった。

 私は不意に、今まで見えなかった「私の城のある町」と北海道を結ぶ縁の糸を感じた。そして、私の中の異郷北海道は、やっと今、形を替えはじめたようだ。

(一九八二・一 『北方文芸』一六八号)

 

「本の話」その1 「ないものがある世界」 今福龍太著(水声社)

  • 2018.06.18 Monday
  • 08:55

昴新年会ですでにお馴染みの「書肆吉成」店主・吉成くんが新しく「池内店」を開いて頑張っている。正確には「書肆吉成 丸ヨ池内GATE6F」だ。その店内ギャラリーで次々と開催されている文学やアートのイベント案内状が送られてくる。

今は気力も体力も老いて、私は従来のように軽々と出かけるわけにはいかないのだが、なぜか「今福龍太 トークイベント」に心が動いた。

人類学者らしいとネットで調べたら大変な人ではないか。なのに、彼の著書は私の読書域から遥かに遠くて、手にしたことも無かった。少々口惜しい。

「ないものがある世界」をめぐる旅―というタイトルにも惹かれた。

今福龍太の作品コレクション「パルテータ」(水声社刊)全5巻の完結篇であって、全集を締め括る一冊に値するらしい。

興味が膨らみ、亜璃西社長の和田由美さんを誘った。

 

今福龍太さんはお洒落な柄のシャツ姿でダンデイなアーチスト風の紳士。

熱のこもった語り口で聞き手を捉える好もしい学者さんだった。

彼のトークは微に入り細に亘って、著書に込めた彼の思想とモチーフを語り、二本立ての章別による編集内容のエッセンスを解説するものだった。要の文章を朗読されることもあり、詩的で美しく閃き、しかも鋭い言葉の表現力に、私は魂を掴み取られる思いで聞いた。

二時間余の熱弁のあと、「もう、僕の本を読まなくても良いことになりそうですね」と笑われた。

「モノの飽和によって本当に大切なもの、あるべきエッセンシャルな存在を失った近未来の世界。自然が創造するエレメンタルでスピリチャルな始原世界。

この二つの世界の喪失と充満を描写し、最後には一つの理想のヴィジョンに統合しようとする哲学的で倫理的な著者の思想が「エッセイ」と「神話的寓話」の二刀流で表現されている。」らしいことを私は聞き取った。

会場の壁面に展示されている木版の挿画も素晴らしい。作者は大久保草子、この人もまた未知の版画家だが「ないものがある世界」の主人公、ノア少年の旅物語の一部始終を凝縮して見せる絵本のように私の想像力をかき立てた。

久々に心から読みたい本に出会った。由美さんも同じように興奮していた。真っ先に買った本にサインを貰う私たち二人の後に大行列が出来ていた

子母澤寛展を見て

  • 2018.06.13 Wednesday
  • 08:53

文学館で開催中の「子母澤寛 無頼三代 蝦夷の夢」展は実に見応えがあり、興味深いものだった。図録も充実した内容で入念に編集されており、子母澤寛の人生とその背景にある人間関係を抽出し、彼の魅力的な文学作品のすべてを網羅し余すとろろがない。

 感興の余波というか、昔読んだものが懐かしく、本棚でホコリを被っていた「新選組始末記」のページを繰った。なんと今は無いなにわ書房の納品書(昭和43年3月1日¥400)が挟まれていて宛名は藤女子大・小笠原克先生とあって驚いた。克先生からのプレゼント本なのだ。43年当時は北海道文学を集中的に読んでいて、「勝海舟」や「親子鷹」などにも大いに感動した私だった。

 

 更に思い出はさかのぼる。東京在住の昭和30年頃には夫・嘉人が駆け出しの編集記者として働いており、鎌倉の川端康成や小島政二郎のお宅に原稿を貰いに行く役目をしていた。

 荒木書房という小社が有名作家の旧著から選び出した読み切り小説の雑誌を出版していた。当時は戦災で作家の手許に自著のない場合があり、国会図書館(赤坂璃宮)から借りた本によって、掲載用の小説を書き写して原稿を作ったものだ。それを作家宅に届け、目通ししてもらう。後日「良し」とされた原稿を貰いに行くのである。

 

 新婚早々だった私は、いくつかの作品を書き写す仕事を引き受けていた。鎌倉へ同行するのが楽しかった。夫が川端さんや小島さんを訪れている間、私は鶴岡八幡宮の大銀杏の下で本を読んで待った。昔、源実朝がそこに隠れていた公暁に斬り殺されたと伝えられる「かくれ銀杏」の大木だが、平成22年、強風で倒れて今はない。 夫は鵠沼の子母澤寛宅にも何度か伺ったことがある。そんな遠い日のことなども懐かしく思い出した。

 

 子母澤寛の小説世界はすべてアウトローの人たちのものであり、時代の敗残者として生き残った義父・梅谷十次郎の膝の上で聞き、子供心に沁み込んだお話の延長線上に展開した物語世界なのだ。新しい時代に負け、失われていく旧世界の残滓として生き死にした人たちの無念、侠気や情味が私の心を打つ。

 

 私の両親もそれぞれ、御一新の大変革に翻弄されて滅んだ旧家の生まれで、負の世界の泥にまみれ、もがき喘いだ生涯だった。その悔しさが私の身にも沁みている。親類中に誰一人居なかった学士様に成るべく、夢追いの希望の星として勉強一点張りの前進だった。

 念願の大学卒を果たしたものの、社会的には何者にもならず、反体制運動の負け犬組で文無し男のヨメになり、ボロ長屋の6畳1室の暮らしからのスタートであった。

 

 波乱万丈の末、現在に至ったが、今なお、私はアウトローだという自覚に変わりはない。

 

久里婆のペン・ヒストリー

  • 2018.02.14 Wednesday
  • 22:44

中村久子(沓沢久里)執筆目録

 

1968・6  「櫛」(エッセイ) 『月刊はこだて』第64号

1968・11  短歌3首 (佳作入選)『市民文芸作品集』NO・8

1977・4  「『防雪林』について」(評論) 『北方文芸』 通刊111号

1979・9   「或る終焉」(エッセイ)『ぽぷるす随筆』第1集

1980・4  「『ヤヌス』の月に」(小説) 『北方文芸』 147号

「らいらっく」(札幌市図書館だよりNo.108)「菊水図書館訪問記」

1980・5  『失われた教会堂』(札幌市北一条教会堂を保存する会・発行)に転載

1980・7  「北の風土と愛」(北海道文庫の会)文庫紹介 くるみ文庫

1980・8.22「鶴の泪」朝日新聞北海道支社募集の「女性の小説」(らいらっく文学賞)受賞

1980・8・29「朝日新聞女性プロムナード」女性の小説入賞者座談会

1980・9.4/11/18 「鶴の泪」朝日新聞道内版に連載される

1980・11 「女と指輪」(エッセイ) 『ぽぷるす随筆』第3集

1981・3  「鶴の泪」 『“女性の小説”入選作品集』 朝日新聞北海道支社刊

1981・9  「『ヤヌス』の月に」 『北海道新鋭小説集1981』 北海道新聞社編

1982・1  「私と城のある町」(エッセイ) 『北方文芸』168号

1983・12 「あの世の入口 ー洞窟伝説−」『北海道大地の祈りーふるさと伝説の旅1』(小学館)に掲載

1983・12 「不在証明」 同人誌『昴の会』創刊号に掲載

1984・6  「極楽とんぼ」(エッセイ) 『北方文芸』 197号

1986・4・24「札幌幌南ロータリークラブ会報」第1126号「ものかき女房雑感」

1986・7  「西鶴、織田作への自己同一化への試み〜藤本義一著『蛍の宿』(書評)『北方文芸』222号

1986・9  『抽出しの中から』 北方文芸刊行会(朝日新聞コラム欄『防雪林』'818'867に掲載の77編)

その後の朝日新聞掲載コラム(’86・8〜’87・3)

○良きパートナーに恵まれて ○知らぬ存ぜぬ ○故旧忘れ得べき○新興川柳の光芒 ○さよならチャーリー ○夫の呼び方 ○正月旅行○正月の食卓 ○冬の花 ○バックシート

1986・9  「言葉をたどって人生にいたる〜足立巻一著『人の世やちまた』」(書評)『北方文芸』224号

1986・10 「本読みに与える書〜向井敏『本のなかの本』」(書評)『北方文芸』225号 

1986・11 「中村久子『抽出しの中から』出版を祝う会」京王プラザ エミネンスホール

1987・2  「北方ジャーナル」 著者インタビュー「抽き出しの中から」

1987・7・1「塀のうちそと」(ホームライフ)第34号

1988・1  「子育てから親育ちへ」『卒業式の日に』『道連れ』(エッセイ)

1988・5  「仏想花」(エッセイ) 『北方文芸』244号     

1989・4  北海道ブッククラブ「大学が発行する総合雑誌あれこれ」

1989・10 「黒板五郎という男性」初出『北海道から』第6号 北海学園刊 

1990・3  「黒板五郎という男性」 『倉本聰研究』理論社 

1990・4  「さよなら開高健」(エッセイ) 『北方文芸』267号

1990・10  インタビュー「澤田誠一氏に聞く・わが北海道文学人生」『北海道から』特集北海道の文学行動

1990・  (エッセイ)「キャンパスライフ イン N.Y.」『ビイオール』NO18

「エキサイテング&クレイジーN.Y.」NO19・「女神アルマ・マータのおひざもと」NO21

1992・12 「丹生水銀幻視行」(ノンフィクシヨン)『北方文芸』299号

1993・ 「黒板五郎という男性」『中学国語 学習指導書』に転載 光村図書出版

1993・5  「時の流れと共に」北海道文学館報40号・らいらっく文学賞展

1995・3   「日韓文化交流の旅に参加して」(エッセイ)『北方文芸』326号

1995・10 『北海道・活動する女性人名事典』三一書房(鷲田小弥太監修に主査として参加・ビジネス編担当)

1996・8   (旅行記)「ルーシー・マリヤ・ボストン夫人とリンボウ先生のこと」『北方文芸』343号

2000・4  「マイ・フレンズ」(エッセイ)『月刊さっぽろ』4月号

2000・10 「捨てる捨てない思案の果てに」(エッセイ)『広報ほくれん』10月号

2002・1   「原野忌によせて」(エッセイ) 『北方文芸』別冊4

2002・2   「二つ返事で」(エッセイ) 『すけっと通信』1号

2002・5  「プチトマト第14号」『好きです東区』プロデュース集団「SUKETTO

2002・6   「きらく衆」(エッセイ)   『薄野カウンター物語』に寄稿

2003・7   「林芙美子と私」(エッセイ)『北海道文学館報』第58号 に寄稿

2004・2  「紡ぎ紡がれ文なす糸は」(エッセイ)『北方文芸』別冊9

2005・4  「ヨシコさん、万ざーい」(エッセイ)日刊サッポロ・4/13

2006・7  「夫が呉れた一冊」・特別企画展「石川啄木〜貧困と挫折を超えて〜」に寄せて・北海道文学館報第66号

2006・8  「紳士の嘘」(エッセイ)日刊ゲンダイ8/1(水)コラム欄「嘘から出た誠」

2006・8  「李よ!金よ!高よ!」(エッセイ)「昴の会」3号

2006・8  「大師堂のある村」(小説)「昴の会」3号

2006・9  「傷痕」(エッセイ)日刊ゲンダイ9/27(水)コラム欄「嘘から出た誠」に掲載

2007・8.1  沓沢久里のほん・小説集「鶴の泪」(北海道新聞社出版局)

(鶴の泪、「ヤヌス」の月に、不在証明、大師堂のある村)4篇掲載

2008・10 沓沢久里のほん・エッセイ集 「抽出しの中から」 …飛雪亭女房雑記(自費出版)

2008・11 「青い季節」(エッセイ)「私たちの戦争と平和−共学の青春創世記−」

大手前高等学校記念文集 大手前高校第二期同窓生桐友会

2009・9  「番狂わせ」(エッセイ)「昴の会」6

2010・9  「おとうと」(小説)「昴の会」7号

2012・9  「通天閣の消えた町」「昴の会」9号

2013・9  「續 通天閣の消えた町」「昴の会」10号

2014・9  「待兼山ラプソディー」「昴の会」11

2015・9  「80歳からの手帖」抄 「昴の会」12号 

2016・3  「昴の会」との春秋40年 北海道文学館報104号

2016・11 「続々 通天閣の消えた町」

2017・4.30 「通天閣の消えた町」(亜璃西社)出版

(通天閣の消えた町、待兼山ラプソディー、おとうと…小説3篇)

2017・5・25 「道内文学同人誌からのメッセージ」 北海道文学館報   号

2017.6.17 「『昴の会』との41年あればこそ」  朝日新聞朝刊・北の文化欄掲載

2017.11.21 第51回 北海道新聞文学賞 受賞 小説」「通天閣の消えた町」

2017.12.13 北海道新聞文学賞(創作・評論部門)を受賞して 北海道新聞夕刊

先島諸島遊覧記 その三

  • 2015.06.05 Friday
  • 18:27
三日目は珊瑚礁の竹富島に渡った。
島の観光センターの水牛車に迎えられ、赤く咲き乱れるブーゲンビリアの垣根を分けるように、白砂の小路をゆたりゆたりと進む。紅色の琉球瓦で葺いた屋根、そこにユーモラスな姿勢で鎮座し、大きなギョロ目で睨みつけ牙をむいて吼える魔除けのシーサー、素朴な石組みながら頑丈に積み上げた石垣、朱色に燃えるハイビスカスの花陰から覗き見る伝統的な民家の風情が美しい。
やがて御者のお姉さんが蛇皮の三線を爪弾いて、「安里屋ゆんた」を歌い出した。車の座席の天井には歌詞が貼り出されているが、合いの手の囃子ことば子供のころから馴染んでいる。“サーユイユイ、 マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ”
昭和の始め、わけもわからず呪文のように唱え、大人たちの声にあわせて歌った懐かしい歌だ。本場で聞き、歌う感慨が胸にじーんと応えた。
食後のフリータイムはマイペース、ぶらぶら歩きで楽しんだ。
昔のように制限時間の目いっぱい、駆け巡って島内を見尽くそうというエネルギーはない。水牛車からは見えなかったが、石垣の岩の間の乾いた土の中から多肉性の珍しい植物が伸び出ている。見たこともない花や葉に夢中でカメラを向ける。
そのうち、不思議な佇まいの場所に行き着いた。古びた石造りの囲みの中に祭壇が設けられている。何の装飾も無いむき出しの石の上に、土器のわずかな祭具があるだけで、白い陶器の花活けとお神酒の小さい杯がポツリと並んでいる。祭壇の上の梁に「仰光」「恩沐」という二つの額が架けてある。何が祀られているのだろうと辺りを見渡すと、古めかしい石碑があった。碑文はこうだ。
「島守の神西塘様
このお嶽は島の生んだ傑材西塘を祭る
西塘は明応九年(1500年)オヤケ赤蜂征討軍大里親方一行が竹富島巡視の折その群を抜く才能を認められ親方凱旋に際して中山王府に同伴されて法仕官に仕えた 苦節二十五年の忠勤がかわれ数々の功績が報いられて大永四年(1524年)西塘は八重山初代の頭職竹富大首里大屋子に任命されて錦衣帰郷し島の南西端皆治原に蔵元(行政庁)を創立して八重山政治の基礎をつくった 蔵元の跡は皆治原に現在も昔の俤をとどめている 国宝の指定を見た首里園比屋武お嶽の石門は西塘の手によって築かれたものである」
はじめて島の歴史の一端を垣間見た気がした。琉球王国の支配下にあった時代、竹富島は八重山諸島の行政の中心地であったわけだ。碑文ではオヤケアカハチは首里に背いた逆賊、ニシトウは首里側に用いられた権力者ということだが、史実の現代的解釈はどうなっているのだろう。
琉球王国についても、中府から遠く海を隔てる先島諸島についても、私はあまりにも無知だった。日本歴史の中でどのように位置づけられているのか、私が受けた国史教育ではここがすっぽり抜けている。ここはいつから日本になったのか。
この地方独特の言葉、風俗、信仰、民芸、生活習慣など、失われた琉球文化の伝統を大切に継承することが、いまや観光地として生きる竹富島の存在理由であり、他にない魅力なのだと思う。
それにしても、尖閣諸島の領有権問題についての危機意識、辺野古への基地移転反対運動、最前線の米軍事基地として沖縄が背負わされている政治的な重荷など、日本の最南端のローカル地ウチナーが現在抱えている困難を考えると、のほほんと観光にうつつを抜かしていることに責めを感じてしまう。
4日目、旅の最後は「石垣島テーマパーク・やいま村」見物だ。竹富村で垣間見ただけの古民家が、ここでは復元され、屋内の様子や暮らしぶりも如実に見学できた。
有形文化財に登録されている旧牧支邸(戦後初の石垣市長の家・大正12年築)森田邸(八重山氏族の屋敷・明治12年築)はいずれも広々とした日本家屋の様式で、畳敷きの座敷の床の間一番座、仏間二番座、居間三番座などが続き、回り廊下の縁側があり雨樋が巡らしてある。
いずれも廃藩置県となってからの家屋だから屋根瓦の違いのほかは和風そのもの。琉球時代の建物の名残りや、普通の民家の暮らしの跡が判然としなかった。ウミンチュー(海人の家)には巨大な海老や蟹の剥製や古びた漁具も展示されているが、ここでも明治以前のことは知れない。
鴨居の上に色あせた八重山歴史年表が貼り出されているのに気が付いた。
14世紀末に八重山が琉球王の統治下となってから戦後日本に返還されるまで、つまり室町時代から昭和に至る約600年間の受難の歴史が一目瞭然に箇条書きされていた。
薩摩藩と琉球王府のみならず、清国、英国、台湾、日本など島外の勢力の影響が八重山に及ぼしたものも明らかに読み取れた。それらの功罪を考えながらも、私はこの島々の平和に満ちた観光地としての、今の発展を喜ばずにはいられなかった。
人気の星砂の浜では、白砂に手の平をこすりつけ、目を皿にして掌に付いた砂の中の小さな星を探した。何度繰り返しても見付からなかった。私の老眼のせいでもないらしく大声で発見を喜ぶ人は一人二人のみ。バスの中で添乗員がハイ、お土産デスと小瓶に入った星砂をプレゼントしてくれた。星の形をした砂の正体は何なのだろう。
最後のスポット、鍾乳洞は足の悪いハルヨにはいささか無理。日本最南端の、さんご礁の海底の、とかのうたい文句にもさほど惹かれない。足下の不確かな地底での上り下りがやっと。神秘的な奇観に見とれる余裕がないのを「鍾乳洞はいずこも同じや」と嘯きながら、なんとか皆のペースに従った。
かくて無事に旅を終え、島人たちの素朴で優しいもてなしに身も心も癒されて、私たち二人は満足いっぱいで帰路に着いた。
しかし、私の旅路はその後もまだ続いている。帰宅後、書棚に勢ぞろいしている司馬遼太郎「街道を行く」の中から「沖縄・先島への道」を見つけ出した。氏が訪れたのは1975年。沖縄変換後間もない時代の島々の実情が記されている。
40年前に司馬さんが見た当時の人々の生活や風物に、私が見た現在の島の有様が、そこに二重写しになる。司馬さんが独自の歴史観を通して錘鉛を下ろし、考察する記述が、私の見聞で感じた疑問を深め、興味を広げて、更なる模索の楽しみを助長する。
かような旅のあとの心旅の面白さが又たまらない。
 

 

先島諸島遊覧記 その二

  • 2015.05.07 Thursday
  • 20:52
2日目は両岸にマングローブが生い茂る珍しい景色を眺めながら、仲間川を河口から船で遡る。マングローブとは木の名前ではなく、海水と淡水が混じる湿地帯に生い茂る植物群の総称である、とはじめて知った。
中流の船着場で下船し、亜熱帯性植物の原生林を縫う遊歩道をたどって探勝する。
イリオモテヤマネコの潜んでいそうな気配を密林の生気から体感せずにはいられない。

大阪女そのもののハルヨは買ったばかりのイリオモテヤマネコの帽子をすっぽり被って成りすまし、臆面も無く歩いている。
やがて、ここでの一番の見所、サキシマスオウノキという巨木に行き着いた。

日本「森の巨人百選」の一樹である大木だ。驚かされるのは、その根元に幾重にもそそり立つ板壁のような巨根。私の背より高く、フレヤースカートのように裾を広げた根が大樹の周りを取り囲んでいる。亜熱帯の樹木ならではの旺盛な生命力の表れに圧倒された。

午後は由布島見物である。島全体が亜熱帯植物楽園という観光スポットだ。
西表島の美原から目と鼻の先の由布島へは浅瀬の海をのんびりと水牛車に乗って渡る。
ここの牛たちは先祖の「大五郎と花子」の末孫で、1頭ずつに名前が付けられている。

手綱を引くおじさんの話では、昭和7年ごろ台湾の開拓民と共に石垣島に渡ってきた農耕牛が水牛の歴史の始まりらしい。由布島が栄えた頃は他島からの移住者が増え、各農家に一頭が飼われる程だったのが、昭和44年のエルシー台風で大きな被害を受けほとんどの人が島を去った。

しかし無人島同然の島に残った人がいた。西表正治おじい夫妻だった。二人はこの島をパラダイスにする夢を実現するために、大五郎・花子、二頭の水牛と共に10年間、木や花を植え続け、手作りの熱帯植物園を昭和56年に開園するという偉業を成し遂げた。

平成15年、正治おじいは96歳で亡くなったが、夫妻の人柄と情熱に感化された人たちの協力で、いまや南の島ならではの動植物が観光客を喜ばせ、文字通りの楽園となっている。

のんびりと島内を散歩する私たちを窺ういたずら者のリスザルが可愛い。珍しい花や木の名をたどりながら、どんな憂さも疲れも癒される由布島のひとときだった。

先島諸島遊覧記 その一

  • 2015.05.07 Thursday
  • 20:51

思えば数え切れないほどの旅を重ねてきたけれど、沖縄を訪ねるチャンスに恵まれない。

格安ツアーの新聞広告を見るたびに旅心をそそられるのだが、今や単独参加の勇気が無い。

夫は全く関心を示さないし、友人たちも老い、道連れに誘う相手がおいそれとは見付からない。琉球圏に行きそびれ、くすぶっている私に火を付ける電話があった。

大阪の老友ハルヨからだ。

「あのな『秘境八重山諸島 西表・竹富・由布・石垣めぐり 4日間』…お身体に優しい…というツアーに行こうかと思てるねん」

イリオモテ・イシガキと島の名前を聞いただけで「私も行く」と即断した。

関西空港から石垣島空港往復の直行便を利用するには、その前後、大阪に2泊しなければならない。ホテル代わりにハルヨの家に泊まるという有難いオマケが付いた。

さて、八重山諸島とは、と地図を開いてびっくり、沖縄本島から遥か南の先ほとんど台湾に近い海上に点々と続く島々ではないか。尖閣列島もすぐそばに並んでいる。

先島諸島という別名にぴったりの日本列島最南端の島々だと分かり興味がふくれ上がった。

 

2月28日、残雪で白一色の千歳空港から、南国の青い海に思いを募らせて、先ずは大阪へ。

ハルヨと娘のナオコが暖かい笑顔で迎えてくれたが、意外にも伊丹空港の空気が冷たくて、薄着の旅装では身が縮んだ。

出迎えの二人はダウン姿で「ヒサコはどこから来たのや。ハワイからか」と笑う。

大阪の異常気象に驚かされたが、よもや石垣島にも変わらぬ寒気が停滞していようとは…

 

明くる3月1日、石垣島空港到着早々、雲行きを危ぶみながら、一行は島一番の景勝地、川平湾に向かう。晴れ間が来て、運よく出航の決まったグラスボートに乗り込んだ。

船底の大きなガラス窓越しに、青く透明な海底の有様が手に取れるように見える。

形も色もとりどりの珊瑚が集まるサンゴ礁や、その間をすばやく泳ぎ回る色鮮やかな熱帯魚の姿に声を上げてみとれた。水族館でおなじみのクマノミ、巨大な口を開いているシャコガイ、おじさんのいそがしい説明が右から左にと耳を抜け記憶する暇もない。

乗船時間の20分はあっという間に過ぎたが、心地よい興奮と目に焼きついた海底の光景の余韻が去らない初日だった。


 

「昴の会」と共に

  • 2014.01.31 Friday
  • 20:59
 
遠い話だが「昴の会」が発足したのは昭和五十一年。
図書館の文学講座や道新の文学散歩などで気が合った本好き女性七人が始めた読書会だった。
北海道文学界の長老・更科源蔵先生の追っかけグループでもあった私たちに、
師は昴(イチャチャイ)と命名してくださった。
アイヌ民話に依る語で、
神様に七つの星にされてしまったやんちゃ娘のことだ。


スタートは読書。
北校国語教諭で小説家の川辺為三先生を講師にお願いして日本近代文学の名作を猛勉強した。
やがて先生のお勧めで創作の手ほどきを受けるまでに発展した。

読むのは愉しいが書くのはしんどい、さしものヤンチャ衆も怖じ気づいた。
が先生はこの上ない書かせ上手。
魔法にかかった皆は夢中になり、ガリ版の習作集が五冊になった。

創作活動が上げ潮に乗った頃、
朝日新聞北海道支社が百万円懸賞「朝日女性の小説」募集を報じた。
「好機到来、全員挑戦せよ」と先生の大号令が発せられた。
皆が必死に書いた。


奇蹟の成果が生じた。
なんと私の「鶴の泪」が入賞。
佳作にも会員二名が選ばれたのだ。

女性向けの画期的な地方文学賞での最初の入選は話題を呼んだ。
原稿・講演の依頼、新聞社からの取材、
テレビ・ラジオ出演等に私は目を回し、
専業主婦の日常は一変した。


「活字にならなければ書いたことにならない」という川辺先生の持論が身に沁みた。
ドラマチックに始まった「昴の会」で三十八年間、
私は文学ファンとしての一路をひたすら辿って来た。
道中で出合った多くの作家、
読み書きの苦楽を共にした戦友達との交流の記憶は私にとって掛け替えのない財産だ。


今も会は健在だ。
新しい書き手が増え、
会員は老若男女取り混ぜて二十五名。
二号で中断していた同人誌は二十年ぶりの奇跡的な復刊を果たした。

それから七年、年刊は順調で、
最新刊の十号には全員の作品が勢ぞろいした。
お蔭さまで読者の好評を受けている。

さて、創立当時からの古株はもはや私だけ。
若木の新芽や実生が勢い良く成長していく姿を見守りながら、
その活力に生かされている。

八十二の年輪はあと幾つ増えるのやら。

未完の小説を書き上げるまで、
文芸の神様どうか御加護を…と祈るばかりの年頭である。

 

早起きは三文の得?

  • 2013.10.29 Tuesday
  • 21:35
いえいえ、三文どころか、
私には千金万金の値。

早寝早起きを一念発起し、
朝の散歩を実行し始めたのは、
昨年の九月、丁度「昴9号」発刊と同時期のことだった。

今年も「昴10号」が予定通りに出版され、
早朝の日課となった烈々布神社参りと日の丸公園でのラジオ体操も
無事2年目に突入している。

学生時代からずっと続いていた夜型から朝型への生活パターン革命。
これがすんなり定着したのは老いのせいばかりではなく、
神詣でとラジオ体操をセットにしたのが成功のカギだったと思う。
篤い信仰心があってのことではない。
不敬にも散歩のコースに思い付いただけだったのに、
鳥居を潜り、神前に手を合わせて祈ると、
不思議に心が晴れるのだ。

前夜、眠れないほど思い煩った諸々の心配事を、
払いたまえ清めたまえと、天に預ける。

新しい朝を無事に迎えられたことを感謝し、
手を打ち、家族の守護を願って拝礼。

若い時とは全く違う心境に到達している自分に、
これで良いのだと甘んじている。
清々しい気分のままに、公園の樹林の中に身を移し、
木々の枝間から漏れて射す朝日を浴びて、
リズミカルなラジオ体操に集中する。

身も心も爽やかに生き返るような、
この快感を覚えると、一日たりとも休めない。

行き帰りに出合う人たちとの挨拶が楽しい。
規則的に、同じ地点で同じ人に会うことで馴染みが生まれる。
初めての人にも「オハヨウございます」が自然に出る。
女性たちは誰もが笑顔で声を掛け合うが、
男性の反応はまちまち……。
きまって歩道橋上で会うのだが無反応の、知らんぷり老人。
にこりと頭を下げるだけの首振り人形、だんまり爺さん。
オハヨウと先を越される元気翁。
とにかく体操の衆は年寄りばかりだ。

例外がある。
「和手拭 しめて駈け来る わかものと 笑み交し合う 朝ごとの幸」
と、思わず五七五に詠んでしまった青年が居る。
初めての日、私のオハヨウに彼はこっくんと笑顔を返して駆け抜けていった。
どきんとした。戦死した従兄弟の面影にそっくりだった。
密かに彼を従兄弟の名で呼んでいる。
シゲちゃんとはほとんど毎朝会える。
神社に参って、公園を突き抜けて帰っていく。
時計のように正確に走り来て走り去る彼と、たまたま境内でほんのひと言二言話せたりする。
そんな朝は妙に嬉しい。

なんとなくときめいて、無言の挨拶をおくる一組の男女が居る。
公園の近くの住人だ。
この一郭には、現存するのが珍しいほど古い三角屋根、
棟割の二軒長屋が並んでいる。
一昔前にどっと建てられた市営住宅だろうか。
二階のぼろぼろの木枠の窓ガラス越しに、
仲良く顔をのぞかせている若いアベック。
気が付いてびっくり、今にもキスをしそうな風情で寄り添っている。
あんまり綺麗な二人なので、足を止めて見上げたら、
なんとマネキン人形。
家主の悪戯心にくすりとしながらも、毎朝、彼等への挨拶を欠かさない。

夏休みになると首から出欠カードを提げた子供たちがどっと参加した。
集団教育のきびしかった昔と違って、羽目を外すのが多い。
体操そっちのけで走り回ったり、取っ組み合ったり、
坊主どもはいたって行儀が悪いが、大人はだれも注意しない。
私も咎める気など無く、子供たちの元気の良さがむしろ好ましかった。
休みが明けると、潮が引いたように淋しくなった。
ところが小さい3姉妹だけが、その後も毎朝やってきて、
大人たちの輪の中心でたどたどしい体操を続けている。
その愛らしさに釣られてか、いつもその子たちの前に立ち、
お手本を示している老人が居る。
往年の校長先生だろうか。
堂堂と広場の真ん中で、衆目を集めながらヨタヨタ体操に臆しない。
ジャンプはもはや無理、号令通りにはならぬ手足を何とか動かし、
子供たちに向き合っている。
この中心の有様が取り巻く無縁の人々の心をどれほど和ませていることか。
体操が終ると、みんなが拍手をし、ラジオの台のある中央に向って礼をし、
それぞれに四散していく。

日の丸公園のラジオ体操には30年以上の歴史があるらしい。
聞けば当番制でラジオ係を受け持つ世話役の人たちがいるという。
体操の前に公園内のゴミ拾いを一日も欠かさない奇特な老人が二人居られる。
犬連れの人も多いが、公園内でフンを踏んづけたことなど一度も無い。
この周辺、エチケット違反する人が少ないらしく、
途中の歩道も、道端の花壇もきれいに保たれている。
組織はされないけれど、地域の共同体意識が健全なのだろう。
早起きのおかげで、
私は今までに知らずに過ごした新しい喜びを味わっている。

弥生の異変

  • 2013.04.11 Thursday
  • 18:51
ひな祭りの翌朝、
階下の食堂に現れた夫が
「なんだか、変なんだ」と左手をだらりと食卓に乗せ
しきりと手指を撫で擦っている。
ふにゃふにゃで反応が無い。
「これって、若しかして、脳梗塞でないの」
いぶかる私に本人はさほど苦にせず朝食を済ませ、
いつも通りに、
会社に行くという。

会社なら近くに脳外科、
整形外科、
総合病院が勢ぞろい、
親しいお医者が多い。

そちらですぐ受診するように勧めると、
「大丈夫だ、足もなんともない。行ってくるよ」
さっさと出掛けてしまった。
夫を送り出して5分と経たぬうち、
突然、
胸騒ぎにおそわれ、
息苦しくなった。

取り返しのつかないことが起きるという不吉な予感。
ケイタイで夫を呼ぶが返事が無い。

しまった、
バスに乗ってしまったのだ。

あの左手のブラブラは脳梗塞の兆候に違いない。
常識として知っていたはずなのに、
目前の夫にあらわれた徴をキャッチできなかった。
なんという迂闊。

一大事の予感と自責に地団太踏みながら、
電話で長男の嫁に助けを求めた。
出勤直前だった嫁が車を走らせ、
私を迎えに来てくれた。

会社に先回りして夫を待った。
夫の到着が遅いので、
もしや受診しているのではと
思いあたる病院に片っ端から尋ねたがどこにも現れていない。

どうしよう。
そうだ、
交番だ。

近所の交番二つは留守らしく応答なし。
やっと大通交番が繋がった。
「どこかで男の年寄りが倒れて、救急車のお世話になっていませんか。」
かいつまんで事情を告げ、
一刻も早く、
夫を見つけて欲しいと頼んだ。

若い声でのんびりと、
おまわりが夫の名前、
生年月日、
身長、
服装、
髪型、
人相、
めがねは等等、
問いただす。
「あのね、家出人探しでもあるまいし、いまどこかで、救急車のお世話になってる老人が要るのか居ないか、さっさと緊急手配してくれませんか」
怒鳴ってしまった。
相手は書類が必要だと言う。
字の説明がもどかしい。
新米のオマワリに違いない。
私の苛立ちに恐れをなしたのか
「オクサン、自分で近くの交番に行って、手続きしてください」
「なんやて、誰も居ない交番でしょ。書類なんか後回し、警察なら無線で緊急連絡してよ」

やきもきしているところへ、
近くの交番から若いのが無線連絡で命じられたとやってきた。

同じ質問をして、
たどたどしくメモ。
書類を交番に戻って作ると言う。
「何故持ってこないの、ここで直接書けば早いでしょう。書類なんかで、もともたして、うちのお父さん手遅れになったら、警察のせいだよ。早く手配してよ」
私の八つ当たりに恐れをなしたか、
はっ、
はあっと逃げ帰った彼から、
5分足らずで電話が来た。
「該当者がみつかりました。まちがいありません」
「えっ、どこで?」
「南北線、北18条駅です」?????
やがて救急隊員らしい人から知らせが届いた。

夫はプラットホームで倒れ、
駅員が救急措置をしてくれたという。

ありがたいことに意識は確かで、
夫のケイタイで本人とも短いながら話が出来た。
その場で救急車の到着を待っているという隊員に、
私は中村記念病院に搬送を希望した。
院長が夫の友人なので是非にと頼んだ。
受け入れの問題があるので、
指令に従わねばならないというのを、
無理矢理通してもらった。
我ながら強引だったが、
私は中村脳外科(現記念病院)に駆けつけ、
院長に頼み込んだ。

夫の出勤を制して、
すぐ救急車を頼むという機転を働かせることの出来なかった自分の
失敗を少しでもクリアしなければと懸命だった。

ほどなく夫は緊急治療室に運び込まれた。
そこから現れた院長先生が
「大丈夫、大丈夫。中に入って顔だけ見てらっしゃい」
と声をかけてくださり、
せかせかと外来の診療に戻られた。
その背中を拝んで、
私は治療室の扉を開けた。
ベッドを取り囲んでいた白衣の人たちから「あっ、外にいて」と制止されたが、
院長のお許しを告げ、
夫の様子をのぞきこんだ。
彼が笑顔を見せたので、
がんばってと声をかけ、
すぐ外へ出た。

命拾いをした夫の強運が何より嬉しかった。
MRI検査の結果、
右脳梗塞と診断された。
手当てが少々遅れた割には軽症で、
左手の麻痺も手首から先に止まり、
これもリハビリの効果でかなり動くようになった。
発症の時、
軽い意識障害があったらしいが、
これも回復。
幸い言語に不自由がない、
右手が利くという状態で、
1ヶ月足らずの入院生活を終え、
3月29日無事に退院。
月末の土・日曜、
二日間は我が家で休息。
早々と四月一日から平常どおり出勤している。

万々歳の一件落着だったが、
何が起きても不思議のない84歳と81歳の日常である。
はらはら見守って下さったみなさんに、
心からの感謝とお礼を申し上げねばならない。

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